文藝春秋/文春新書 660円 [Amazon]
新書で泣けるとは希な体験。著者自身も猫の飼い主だが、もちろん、そういう書き方がされているわけではない。あらゆる事実を簡潔に列挙し、冷静に分析し、歴史をたどり、現状に至るという、ばりばりの新書スタイルだ。だが、読み進んでいくうちに、不遇な犬や猫、また“ペット・ロス”の実例に、どうしてもじぶんとじぶんの飼い犬を重ねてしまう。このままでは、本書の中にある「ペット・ロスに陥りやすい人」まっしぐらである。ああ、目の前で飼い犬がだらしなくも仰向けになって寝ている。かわいい……。(2000.1.21 白耳)★★★★
大和書房 1200円 [Amazon]
大和書房ホームページ連載(2001.3〜2003.8)に加筆+書き下ろし。ふしぎなタイトルだが、「雨」というのは著者の飼い犬の名。その雨といっしょに聴いた音楽にまつわるエッセイ集。「かつて私は、しばしば音楽にたすけられました。いまは雨にたすけられています」この帯の文句にぐっとくてしまうあなたは、きっと愛犬家。(2004.3.30 白耳)
★★★★
▽雨はコッカースパニエル(文・写真とも連載開始当時)河出書房新社/河出文庫 540円 [Amazon]
『妻と私』江藤淳夫妻が、二十四年間ともに暮らした三匹の犬にまつわるエッセイ集。夫人による装画、口絵、本文カット付き。「犬」とつくとつい手に取ってしまうが、こういうのはなんだかなあ。本文も寄せ集めふうで、重複する部分もあり途中で飽きる。犬は三匹ともコッカー・スパニエルです。(1999.12.6 白耳)★☆
愛犬王 平岩米吉伝
小学館 1600円 [Amazon]
第12回小学館ノンフィクション大賞受賞作。動物行動学の先駆者、平岩米吉の情熱あふれる生涯を描く。狼の行動範囲はどんどん広くなり、犬と同じように庭から廊下や座敷、書斎などへも自由に行き来し、時には階段から二階に上がり(中略)そのために板の間は傷だらけ、畳の目はすべてなくなり、障子は破れ放題だったが、そんなことを気にする者はすでに平岩家にはいなかった。(p.64)しかし、どうやらこの「奇人先生」は、動物たちの食事の世話や寝床の掃除などの雑用は奥さんに任せっきりだったようです。それでも米吉の動物たち、とりわけ犬にそそぐ愛情は深く、犬たちもその思いに全身全霊でこたえている。彼が生涯を通じてもっとも愛したおすのシェパードを失い、悲しみに打ちひしがれる様子は涙なくしては読めない。
★★★★★
講談社 1600円 [Amazon]
著者は在独日本人。タイトルはかたいが、グレーフェ家で暮らす犬「ボニー」が語る、ドイツ人家族の生活と犬の話という内容。著者個人及びグレーフェ家関係者には面白いかも知れない。あと、ドイツで犬を飼いたいと思っている人とか。こういうのって、あまり親しくない人に、遠い親戚の話を聞かされているような気分になるなあ。ぶう。(白耳)★☆
ドイツの犬はなぜ幸せか 犬の権利、人の義務
中央公論新社/中公文庫 648円 [Amazon]
2000.8.25初版。著者名は「グレーフェ・あやこ」と読む。「あや」は「或」という字の斜めの線(右上から左下への)が3本あるという珍しい字。親本は上で白耳が紹介している、『犬の権利、人の義務』というタイトルで講談社から1996年10月に刊行されたもので、それを改題、加筆訂正したとのこと。著者は言語学系のひとで、69年にドイツ人と結婚、渡独。ミュンヘン在住だそうです。★★
講談社 1400円 [Amazon]
『ドッグ・ワールド』連載の愛犬エッセイ。★★★☆
集英社/集英社文庫 400円 [Amazon]
犬はタイトルだけ(笑)。佐藤正午の初エッセイ集。1984年から1989年まで、約5年分の「ぼく」が綴られている。文末に「こういう事実はなかった」的ネタばらし、また短い後日談が追記されているのがなんともおかしい。佐藤正午ファンならぜひ。(白耳)★★★
★★★
新潮社/新潮文庫 400円 [Amazon]
コバルト系作家のエッセイ本。表紙・和田誠。タイトルいい。いやしかし、この内容は難しい。難解というのではない。平和なイメージのタイトル及び表紙のイラスト、帯の惹句、また裏表紙のリードの内容に反して、犬の生き死にについての記述が多いのである。☆
新潮社 1300円 [Amazon]
「小説新潮」連載エッセイ「かくかく、しかじか」より23編。文章を書いて飯を食う身が、手紙ひとつ記せなかった。どんな言葉も、そらぞらしい。文章というものは結局、何事もなく、平穏に過ごしている者だけにしか、通用しないのである。あるいは、喜びごとだけのものだ、と断じてもよかろう。(p.103「紅鶴」より)上のようなことをあっさり書かれてはなあ。脱帽。
★★★
ハラスのいた日々 〈増補版〉
文藝春秋/文春文庫 400円 [Amazon]
愛犬家必読の書。読むたびに泣けます。とくにハラス失踪の顛末には涙滂沱でございます。(1999.7.9 白耳)[評価番外]
1990.4.10初版。映画かテレビにもなり、話題になった記憶はあるのだが、あまのじゃくな私はどうも手を出せずにいた。が、白耳が、何度読んでも泣く、というので読んでみた。短いからすぐ読める。
……泣ける。
神保町界隈で著者を見かけたことがある(当時明大で教えていたんだと思う。酒場で「あれが――」と先輩に小声で教えてもらっただけだが)。むろん「ハラス」は未読だったし、名前を聞いてもどういう人だか知りゃしない。今だったらサインのひとつももらってたかもしれん。
ドイツ文学者であり作家の著者のところに、柴犬ハラスが来て、そして年老いて死ぬまでの話。雪山失踪のところとハラスの死と、一冊で二度泣けるのは保証する。
うちの娘はまだ若いからいいが、それにしたって人間のほうが長生き(たぶん)。これが死んでしまったら、わたし(と白耳)はどうしたらいいのか……。しみじみしながらベッドど真ん中でヘソ天になって寝ているTをながめた。(1999.7.13 黒鼻)
★★★★
岩波書店 1900円 [Amazon]
『ハラスのいた日々』から12年後の犬本。著者は生涯三頭目の犬(豆柴)を飼っている。帯に“老人と犬”とあるように、犬を飼っている高齢者の視点から、現代の犬事情、また老人問題に言及した内容となっている。後半は、なんとかの繰り言的な雰囲気があってしばしば腹も立つが、犬の飼い主として共感できるところが随所にあり、楽しく読めた。(1999.3.16 白耳)★★☆
犬のいる暮らし 〈増補版〉
文藝春秋/文春文庫 667円 [Amazon]
2002.1.10初版。『ハラスのいた日々』の続篇。単行本は、1999年3月に岩波書店、2001年9月に文藝春秋から刊行。上で白耳が紹介している本と同じじゃないかというなかれ。同じなんだけど。でも元の単行本に、その後発表されたエッセイ三篇を加えて、決定版となったのが、これなのです。ちょっとお得。一度深く犬を愛し、犬を十数年も伴侶として暮したことのある者は、自分はもう犬を飼っていなくても犬への関心を失うことはありえない。目はつねに犬に注がれている。(p.93)(2002.1.20 黒鼻)
★★★☆
光文社・光文社新書 740円 [Amazon]
著者は1943年生まれ、埼玉大の教養学部教授、文学博士。『平安文学の文体の研究』『ちんちん千鳥のなく声は〜日本人が聴いた鳥の声〜』『平安朝“元気印”列伝』など著書多数。私が一番最初にひっかかったのは、平安時代の『大鏡』に出てくる犬の声です。「ひよ」って書いてある。頭注にも「犬の声か」と記してあるだけのです。私たちは、犬の声は「わん」だとばかり思っていますから、「ひよ」と書かれてもにわかには信じられない。雛じゃあるまいし、「ひよ」なんて犬が鳴くかって思う。でも、気になる。これが私が擬音語・擬態語に興味を持ったきっかけでした。(第一部「擬音語・擬態語に魅せられる」より)というわけで、英語の三倍、1200種類に及ぶという日本語の擬音語・擬態語の歴史と謎を解き明かした本。
「私はといえば、むろん擬音語・擬態語大好き人間です」(p.12)なんてさ。いまどき「ナントカ大好き人間」もなあ。著書のタイトル『平安朝“元気印”列伝』もなんだかなあ。ご専門の割には言葉のセンスのろくさし。(2002.9.10 白耳)
★★★
中央公論新社 1600円 [Amazon]
犬と暮らした作家たちの随筆集。1954年に刊行された単行本『犬』を底本に、クラフト・エヴィング商會の創作・デザインを加えて再編集。バセットハウンドに似た「ゆっくり犬」かわいい。随筆の著者は、川端康成、幸田文、志賀直哉、林芙美子、阿部知二、網野菊、伊藤整、徳川夢聲、長谷川如是閑。純血種を飼ふことは、愛犬家心得の一つである。川端家の犬については、伊藤整が「犬と私」の冒頭で触れている。これがおかしい。
純血種は死にやすくて、飼ひにくいといふ。ヂステンパアにも弱いといふ。だから、初心の人は先づ雑種を飼へという。それも一理あるが、麻疹や疫痢がこはいから子供は産まない、賢い子供は体が弱いから阿呆な子供が生まれればいい、そんな風に思ふ親があるだらうか。また高い犬を殺してはと恐れる人もあるが、そんなことをいへば、家財道具だつて、いつ火事で灰になるやらしれず、貯金も株も確かではなく、第一さういふ御当人の命が明日知れない。貰った犬ならば粗末にする、高く買った犬ならば注意する、それで結局同じである。私の経験によれば、犬はさう死ぬものではない。ヂステンパアにかかつた子犬など、私の家にはまだ一頭もいない。(p.85-86)
昭和七年頃、川端康成氏が鎌倉へ引っ越す前、上野にいた頃、その邸宅は犬の吠え声で大変だつた。庭の中には何匹もの犬がいて、私たち外来者があると五色ぐらいの声で吠え立てた。(中略)ケンニンジ垣のかげの中庭で、犬がケンケンケンと声をふりしぼつて鳴き立てると、それはこう言つているようである。「その人間、いまそこに立っているその男の中には、僕の敵がいます。あやしいものが、たしかに、その人間の内側にかくれています。それが、誰も分からないのだ。おれしか、このおれにしか分からないのだ。もどかしい、苛立たしいことだが、おれにしか分からないのだ。そいつを警戒して下さいよ」どうもそう言われるような気がする。そして川端さんが門口へ出て来て、あのマバタキをしない眼で、当たり前より心持ち長く見つめるあの見方で、じつと、私の顔を見ると、私は「もう駄目だ、この世には隠れ場所がない」という気がしたものである。(p.58)巻末に「今日の権利意識に照らして、不適切な語句や表現がある」云々とあるように、なにしろむかしの話だから、とくに犬好きには不快に感じられる部分が多々あるが、そういう時代だったのだ。阿部知二の「赤毛の犬」に出てくるジュジュという名前ののら犬に、わたしは胸が苦しくなるくらいの懐かしさをおぼえる。いつの時代も、犬は人とともにある。(2004.10.3 白耳)
★★★★☆
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