少女と犬1


 ある日、飼い犬を連れてだらだら歩いていたら、かき抱いて耳を咬みたくなるようなエアデール・テリアの仔犬が飛び出してきた。車道である。わたしはとっさに仔犬の首輪に手をかけた。すぐに男の子と女の子が追ってきた。
「あぶないよ」
 つい口調が厳しくなった。
「すいません」
 きょうだいなのだろう、年長の男の子のほうが殊勝にもそういった。
「かわいいね、エアデール・テリアでしょう?」
「はい」
 きっぱりと男の子が答えた。ふうん、と思った。子どもは飼い犬の犬種を知らないことが多い。
「名前なんていうの?」
 後ろのほうででびくびくと様子をうかがっている女の子に向かってわたしはいった。
 あまり似ていないきょうだいだった。頭髪を短く刈り込んだ和風のつくりの兄ちゃんに、天然パーマで目が大きく、いわゆるくどい顔の妹。左の鼻の穴の下には半分固まった鼻水が鈍く光っている。知らない人と話すことに慣れていないのか、もじもじする妹に、兄ちゃんが「いえよ」という顔をした。
「ジャック」
 ハナタレがいった。消え入りそうな声だった。
*

 次に会ったとき、ハナタレはやっぱり鼻水を垂らしていた。
 身長1メートル10センチくらいの細い身体に、やけに大きなトートバッグを下げ、犬に引きずられるようにして歩いていた。交通量の多いところで、ちょろちょろ歩きと弾丸走りしかできないような仔犬を、年少の子どもに散歩させる親というのも理解に苦しむが、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるのだろう、わたくしはハナタレが気がつかなければ、そのままやり過ごそうと思った。内気そうな子だし、下手に話しかけると危ないような気がしたからだ。
 しかし、あと数歩というところでジャックがうんちを始めた。しかも歩道のど真ん中で。
ハナタレは立ち止まったわたくしと犬を見て「よかった!」という顔をした。見知った人だから安心したのだろう。ジャックのほうもボーダー・コリーの成犬に怖じることなく悠々とうんちを済ませ、後肢でありもしない土を蹴りかける真似をした。
「ティッシュがない……」
 さっきからトートバッグを探っていたハナタレがいった。
*

 バッグの中には小さく結んだスーパーのビニール袋が詰まっていた。それで工夫すればいいじゃないかと思ったが、泣きべそをかいているハナタレが気の毒になった。わたくしはウエストポーチから、うんち袋をひとつ取り出してハナタレに差し出した。うちのうんち袋は、市販のポリ袋に適当な長さに切ったトイレット・ペーパーが入っている。ハナタレは黙って受け取り、ポリ袋の中のペーパーを半分ほどちぎると、「すいません」といいながら残りを返そうとした。わたくしはハナタレのつましさに胸を打たれた。
「いいの、たくさんあるから。それ使って、持ってくといいよ」
「すいません……」
 ハナタレは鼻をすすりあげながら、トート・バッグを足に挟み(地べたに置いてはならないと教育されているのだろう)手に持ったトイレット・ペーパーでうんちを拾おうとした。だが、うまくいかない。なぜなら、もう片方の手でリードを持っているからだ。用を済ませた仔犬は、すでに走り出そうとしている。やれやれ。
「持っててあげる」
 そういうと、ハナタレは盛大に鼻をすすり上げながらリードを差し出した。
*

 おそろしく手際のわるい子だった。思いがけない接近に狂喜する純血種2頭のリードを引き絞りながら、わたしは慎重にうんちを拾うハナタレを根気よく見守った。どうにか拾い終え立ち上がったハナタレは、無言でわたしを見つめた。
「よかったね」
 我ながら間の抜けた台詞だと思ったが、ほかに何という?
「……はい」
 沈黙。
「首輪が同じだねえ」
 偶然にも同じチョークタイプの首輪だった。
「……はい」
 早く犬を取ってくれないものか。
「大丈夫?」
「……はい」
 わたくしは仔犬のリードを差し出した。ハナタレは無言でリードを受け取り、また上目遣いでわたくしの顔を見た。
「じゃあ、気をつけてね」
「……はい」
 しばらくして振り返ると、犬に引きずられながら横断歩道を渡るハナタレが見えた。「強く生きるんだよ」と思った。(つづく)



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