長いお別れ


 ひとり暮らしは気楽なものだったと思う。
 わたしは長くKという街に住んでいたが、引っ越すことを誰にもいわなかった。何日かかけて馴染みのレストランやバーをまわり、いつものように飲み食いして、いつものように無駄話をして、いつものように勘定をして、いつものように「またね」といって店を出た。引っ越し当日は、トラックを見送ったあと、馴染みの蕎麦屋で天盛りを奮発してビールを飲み、実に晴れ晴れと電車に乗って新しい土地へ向かった。
 だが、犬と暮らすようになってから、そうはいかなくなった。やけに別れがたいのである。


 S駅前の菓子屋兼煙草屋のおじさん、いつもマドレーヌをありがとうございました。わたしたちを見るとすぐに売り物のマドレーヌの袋をひっちゃぶいて下さいましたね。犬がそっぽを向いて食べなかったこと、心からお詫びします。隠れ鉄ちゃんのあなたに聞いたあの路線の歴史忘れません。また煙草一個に過分な景品をいつもありがとうございました。

 お向かいのKさん、いつも掃き掃除ちゅうに犬をかまって下さり、ありがとうございました。うちの犬はテツではなくテスです。言い出せなくてごめんなさい。中華街のお土産おいしうございました。

 Dマンションの管理人のおじさん、いつもお仕事中に犬をかまって下さり、ありがとうございました。親戚の「わん公」は元気でしょうか。

 道具屋のおっちゃん、いつも待っていて下さりありがとうございました。雨に降られた日、傘をお借りしなかったこと、ごめんなさい。迷惑なのではなく、あなたの親切が愚かなわたくしには痛かったのです。

 Y八幡に奉職している学生さん、いつもお仕事中にかまって下さりありがとうございました。きっと立派な神官さんになられたことでしょう。水神様の脇に五円玉の山をつくっていたのは、実はわたくしです。

 揚げ物屋のご家族のみなさん、いつも声をかけて下さり、嬉しうございました。お留守番のシェルティは元気でしょうか。けっきょく一度も会えませんでしたね。また、立ち話するだけで揚げ物の一個も買わず、ごめんなさい。いつも持ち合わせが足りなかったのです。

 C美容院のお姉さん、犬がドアマットにおしっこをしたとき笑って許して下さり、ほんとうにありがとうございました。ごめんなさい。

 薬屋の悩み多きTくん。人に年齢を訊くときには、まず相手の性別を確認したまえ。ひとまわり以上年かさだということを黙っていたけど謝らない。
 わたしはきみが何かを話したいと思っていることを知っていたし、聞いてあげたかったのかも知れない。犬を可愛がってくれてほんとうにありがとう。生きるということは辛いことだけど無断欠勤はよくないよ。

 シベリアン・ハスキーのKくん、ビション・フリッセのRちゃん、MダックスのMちゃん、パピヨンのCちゃん、ボーダーコリーのMくん、プードルのAちゃん、ベランダの柴くん、シェルティのSちゃん、シー・ズーのMちゃん、黒ラブのNくん、パグのHちゃん、みんなみんな元気でしょうか。(2000.11.18)



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