匿名希望


 トイ・プードルのハナちゃんは某企業の社宅に住んでいる。社宅の隣は草ぼうぼうの空き地で、ハナちゃんはときどきそこでリードをはずしてもらう。
 ハナちゃんの飼い主さんの会社に、ある日奇妙な問い合わせの電話が入った。相手は名を名乗らず「お宅の社宅では犬を飼ってもいいんですか?」とだけいった。担当者は「とくに規則はありません」と答えた。
 数日後、ハナちゃんの家に区役所の人が訪ねてきて、「犬を繋がないで飼っている人がいて困っている」という苦情が出ているといった。

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 私鉄の高架下に公園がある。ジャングルジム兼すべり台とでもいうのか、いちおう遊具やベンチが置かれているが、気を付けてないと見過ごしてしまいそうになるくらい小さな公園で、わたしは密かに“鼠の額公園”と呼んでいる。車道に近く空気がわるいせいか、子どもが遊んでいるのを見かけたことがなく、目つきのわるい若い男女がうんこ座りして煙草を吸っていたり、ホームレスの人がベンチで寝ている。食い散らかしたゴミ目当ての野良猫たちのたまり場でもある。
 ある日、出入り口付近に出現したモノを見て、わたしは思わず笑ってしまった。公園の面積の半分はあろうかと思われる、でっかいぴかぴかのモノ――看板には「ここはみんなの遊び場です。犬や猫は入らないで下さい」と書かれていた。噂によると、区役所に匿名の苦情電話が入ったそうである。

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 某八幡神社の空き地は、犬とその飼い主さんたちのユートピアだった。天気のいい日なら時間帯によっては、五、六頭の犬がノーリードで走り回っていた。運動不足やストレスの解消とともに、犬同士の礼儀作法を習得させることができる、誠にありがたい場所だった。犬と遊びたくてやって来る子どもたちもいた。
 だが、ある日突然「犬立入禁止」という注意書きが出現した。事情通によると、社務所に匿名の苦情電話が入ったそうである。

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 某公園には浄化した排水を利用した人工池がある。縁から中心に向かってなだらかな傾斜がついた浅い池の底は、玉石を埋め込んだコンクリート敷きで、入って水遊びをすることができる。
 ある暑い日に、テスを連れて“波打ち際”を歩いていると「犬は入らないで下さい!」と声がした。
 小学生高学年と思われる女の子だった。「どうして?」とわたしがいうと、すぐに目を逸らし、こんどはこちらを見ないまま「犬は入らないで下さい!」といった。「なんで?」わたしはなるべく優しくいった。「犬は入っちゃだめなんだよ、ねえ」女の子は、傍らのお友だちに向かってぶつぶつとそういった。小学生と喧嘩するのもアホらしいし、わたしは池を出ることに決めた。じゃあね、ばいばい――ところがその女の子は、わたしの背中に向かって「犬は入らないで下さい!」と言い続ける。犬は入らないで下さい犬は入らないで下さい犬は入らないで下さい!
 ああ、こういう子の親が匿名の電話をするんだろうな、と思った。そして、この子も大人になったらやっぱり匿名の電話をするんだろうな、と思った。(2000.11.23)



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