座敷犬


 わたしが小学生のころ、犬は外で飼うものだと決まっていた。
 飼い犬の多くは和犬ミックスで、玄関の脇などに繋がれており、よく吠えた。番犬として飼われていたのだろうから、やかましく吠える犬のほうがよかったのだろう。
 純血種ではジャーマン・シェパード、秋田、ブルドッグ、ボクサーなどで、珍しいところではグレート・デーン、ドーベルマンがいた。こうして並べてみても、やはり恐そうな犬ばかりだ。

 そのうちマルチーズやポメラニアンといった小型洋犬が流行しはじめた。外で飼われているのもいたが、たいていは家の中で甘やかしのご主人様に抱っこされ、いつもきゃんきゃん吠えていた。そういう犬を『座敷犬』といった。

 わたしの母は座敷犬を嫌っていた。臭くて泥足で、ところかまわずうんちやおしっこをするような汚いモノを家に上げるなどまかりならんというのだ。訪問先に座敷犬がいるとあからさまにいやな顔をして、あとで必ず悪口をいった。当時は定期的に犬をシャンプーしたり排泄物を回収するような習慣がなかったから、たしかに犬は犬臭く、そこらじゅうに立派なうんちが放置されていた。もともと動物嫌いの母が嫌がるのも無理はない。だが、母が『座敷犬』を嫌ったのは、衛生面の問題だけではないと私は思っている。

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 うちの近くに座敷犬のマルチーズ(ジュリちゃんという名だった)がいた。飼い主さんは陰で“マダム”と呼ばれていた。いまでいう飲み屋のママである。また、同じく座敷犬のポメラニアンがいる家の夫婦には子供がなかった。毎晩ブルドッグ三頭と一緒に寝ているという人は、そこらへんを仕切っているヤクザの親分だった。

 夫婦に子供が二人か三人、場合によってはおじいさんやおばあさんもいる。お父さんは正しい納税者で、そうそう贅沢はできないけどつつがなく家族を養っている。当時はそういう家が「ふつう」で、またそうでなければならいと思われていた。そして、そこにいる犬や猫は家族ではなくプラスα、あくまでも“{家族=(人間)}+犬猫”が「ふつう」で、またそうでなければならいと思われていた。
 そんな一般常識の中で“家族={(人間)+(犬猫)}”をやっているのは、多く「ふつうでない」人や家族だったから、数に安住するあんぽんたんが自動的に「そうであってはならない」と思い込むのは自明である。

 もうひとつは父権の問題である。当時の「父」は偉かった。すべてを支配しすべての決定権を持つ、最高神ゼウスのような存在だった。わたしの父も例外ではなく、加えて家父長制の権化のような男だったから、そりくり返りすぎてひっくり返るんじゃないかと思うくらい偉ぶっていた。そういう「父」が、犬猫に対し女子どものような態度をぬけぬけと取れようか。とくに犬はその本来の性質から、「父」にとって、雨の日でも風の日でも同じ場所に立ち続ける歩哨のような、物言わぬ忠実な僕でなければならなかったはずだ。

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 さて、それから約二十数年の時がうつろい、犬と犬を取り巻く環境は大きく変わった。人間の女が子どもを産まなくなったかわりに、ありとあらゆる犬が輸入され増え続けている。そしていまや外で犬を繋ぎっ放しにしているのは『悪』である。じゅうぶんな運動と腹一杯のめしを与えられていても、通りすがりの人が「かわいそうに」と眉をひそめる時代になった。猫より小さいチワワからグレートピレニーズまで、家族と一緒におうちの中で暮らしている。
 『座敷犬』は、もはや死語である。(2001.3.9)



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