犬と暮らすということ1


 生後五〇日の犬と暮らし始めたころ、ある人がじぶんの犬をして「誰にでもついてって、どこででも幸せに暮らすさ」と言った。当時はなんてひねくれたことを言うんだろうと思ったが、最近ではそうかも知れないと思うこともある。
 よちよちとやってきて人の顔をじっと見つめたり、ぴったりと寄り添って膝に顎を載せたりするのを見ていると、思わず人間同様の“愛情”を感じてうっとりするが、間もなく、実はお腹が空いているのだとか、そろそろ散歩の時間なのだということに気がついて「なんだ」と思うこともしばしば。犬の生態から考えれば、ほとんどが論理的に説明可能な行動だろう。
 だが、そうとも言い切れないことがあるにはある。

*

 わたしは家でひとりで食事をすることが多い。それでも必ずビールは飲むし、食後には、ウィスキーか何か片手に、夕刊や読みさしの本をゆっくりと眺めることにしている。そのころには犬もたいてい食後で、絨毯の上でぐりぐりと“まんぷく踊り”をしたあと、好きな場所に、ただ伏せている。エリザベス・M・トーマス女史が著書の中で述べているように、「生きる歓びにひたっているとき、じつに犬たちはなにもしない」のである。わたしはこの記述にいたく感動したが、それはまた別の話。

 さて、そうしてわたしと犬は、食後の満ち足りた時間を静かに過ごす。低いテレビの音と、わたしが紙をめくる音以外、何も聞こえない。
 ひそかな足音がする。犬が食卓に忍び寄り、向かいの椅子に飛び乗って座る。通常は夫の席である。犬は挨拶代わりなのか、テーブルの縁を軽く舐めたあと、じっとわたしを見つめる。わたしは見て見ぬふりをする。犬は軽くはあはあと息をついたあと、そのままの姿勢でテレビのほうを見る。テレビでは遺伝子治療を扱った番組をやっていて、なにが面白いのか、それを根気よく眺める。ときおり首を伸ばして中空をくんくん嗅いだりもする。そしてまたじっとわたしを見つめる。わたしは見て見ぬふりをする。そうやって小一時間を過ごし、飽きてしまうと(飽きているのかどうかはしらないが、たぶん)またソファの上か、床のすみっこに戻って横たわるのだった。

 犬が何を考えてそうしているのか、わたしにはわからない。だが、わたしにはどうしても、犬が夫のかわりをつとめているとしか思えないのだ。わたしと夫は、揃って食事をしたあとは、だいたいいつも、それぞれに好みの酒をやりながら、それぞれに好きなテレビをみたり、本を読んだりして夜を過ごす。夫が不在の夜、その「だいたいいつも」を彼女が――知ってか知らずか――おぎなってくれているような気がしてならない。(2001.3.31)



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