フルート嫌いの犬


 わたしはフルートを習っている。小学生のころ習っていたことがあるから、ドのつく素人ではない。うん十年触りもしなかったわりには、とりあえず吹けば音は出るし、楽譜もだいたいわかる。

 大人になってからの習い事はたいへんだ。まず、時間をつくることから始めなければならない。そのためには日々失われていく根気や情熱に新しい薪をくべ、そのうえ油をそそぐくらいの心構えがいる。。また、なにかと誘惑の多い自室で練習するには環境作りも大切だ。
 こういうふうに書くと偉そうだが、ようするに「怠け癖封じ」である。さしあたり本やパソコンといった逃避を促すような品々及び周辺を整理整頓、譜面台を立てて楽譜をセットし、いつでも手に取れるようフルートを出しておくことにした。しかし、問題はわたしの怠け癖だけではなかった。


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 いざ練習を始めると犬がこそこそと部屋を出て行く。
 テスは子犬の頃からトランペットの音、とりわけマイルス・デイヴィスの吹くトランペットの音があまり好きではない。ほかにもエンヤ(アイルランドの歌姫ですね)のCDをかけると、曲によってスピーカーに向かって唸ったりすることがある。犬の耳に音がどう届いているのかはわからないが、おそらくフルートの音もそのたぐいなのだろう――と思っていた。


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 ある日、ジャズ・フルートプレイヤーのハービー・マンのCDを買ってきて、いそいそとステレオにセットした。「いやだろうけど、ちょっと我慢してね」とわたしはテスに言った。
 だが、曲が始まってもテスは部屋を出ていかないどころか、すやすやと安らかな寝息をたてて居眠りを始めるではないか。

「おお、ずいぶん上達したね」と家人は褒めてくれる。だが、それが人間特有の方便、つまりお世辞だということはわかっている。その証拠にテスは相変わらず部屋を出て行く。そういうとき、たまに目が合うことがあるが、「あっ、すいません、わたしちょっとヤボ用が」というふうである。まったく失礼にもほどがある。でも、犬は嘘をつくことができない。

 早く犬がうっとりと聞き惚れるような演奏ができるようになりたいものだ。(2002.5.15)



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