エサを与えないでください



 わたしが密かに「エサやりおやじ」と呼んでいるその人は、犬と見ればいつだってどこでだって、腰にくっつけたポーチから何かを取り出してくれる。彼もビーグルとなにかのミックス犬を連れているが、じぶんの犬そっちのけでひとしきりエサ配りに精を出す。
 食べ物をもらって嬉しくない犬はそうはいない。たびたびもらっているうちに、その人を見ただけで飛びついて行くようになる。飛びついて行った犬の飼い主さんは、いちおうは「ダメ」などと注意するが、その後はたいていの場合、なすがままだ。

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 わたしはテスを、許可なくものを食べないようしつけた。ごたいそうな服従訓練などではない。たんに「拾い食い防止」である。子犬のころ、それこそなんでも口にいれてしまうのを見て、これはいけないと思った末のことだ。
 食品だったらまだいいが、人間の生活の中には、飲み込んだら危険なものがたくさんある。犬に危険なものかそうでないかの区別がつくわけがないのだし、かといって四六時中見張っているわけにもいかない。だから、なにかを無断で口に入れようとしたら、恐ろしさのあまりおしっこチビるくらい叱った。
 このしつけは、思いがけない効果を生んだ。テスは、とくに外では、なにかもらっても、めったなことでは食べない。相手がよく知る人で、わたしや家族が許可してようやく食べる。人によっては愛想のない犬だと思うだろうが、わたしはそれでいいと思っている。

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「この犬は外でものを食べないようにしつけていますのでけっこうです」
 ある日、わたしはきっぱりと「エサやりおやじ」に言った。
 もらってもどうせ食べないのだし、持ち帰ってもけっきょく捨てることになる。最初のうちは「いま下痢をしているので」「ダイエット中なので」と言って断っていたが、度重なるうちに、嘘までついて気を遣うことがばかばかしくなった。
 ほかの犬や飼い主さんたちの前でのことだったから、そうとう気まずい思いをしたのだろう。以来、露骨に避けられている。でも、とくに心は痛まない。「上等だよ」とさえ思う。

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 嬉しいことに、わたしのひと言にすっきりしたという飼い主さんがいた。
 その人は、太りやすい黒ラブの飼い主さんで、日頃から餌やおやつを厳しく制限している。
「ちょっとぐらいとは思うよ。でも、なに下さってんだかもわからないじゃない。だからイヤ」
 と、その人は言う。「エサやりおやじ」が、ポーチになにを入れているのかわからないから、もらうのがイヤ、というわけだ。そういう考え方もある。いちおう同じ犬の飼い主なのだから、犬の体によくないものを配っているわけではないだろう。しかし、その「よくないもの」についての考え方も人それぞれだ。ササミジャーキーだって「よくない」と考える飼い主さんもいるのだ。
 この話は、犬を人間の子供に置き換えると、とてもわかりやすくなる。いまの日本で、行きずりの人がくれた、わけのわからないお菓子を、ありがたがって子供に食べさせる親がいるだろうか。

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 わかりやすい「善意」を拒否することはとても難しい。でも、言うべきことを言わなければ、じぶんも犬も守れない。(2003.2.8)


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