第一章 犬がくるまで

■犬が欲しい!
 実に二十数年にも及ぶ保留事項だった。鎌倉に引っ越したときだったらいいなファイルに移した。だが、往復三時間強の遠距離通勤に行く手を阻まれた。暮らし始めた頃のもっとも印象深い鎌倉の風景は、鶴ヶ丘八幡宮でも銭洗弁天でも材木座海岸でもない。駅前東急と夜空に輝くオリオン座だった。
 約半年後、当地で小さな引っ越しをした。それから間もなく、わたしは仕事を在宅勤務に切り替えた。いま思えば、すべてのためである。


■取材
 いまとなっては飼い犬にわるいが、わたしはアイリッシュ・セッターが欲しかった。
 ある日、伊藤整さんのエッセー集を読んだ。その中に出てくるのがアイリッシュ・セッターだ。どんな犬だろうと思った。なかなか素敵なわんわんちゃんのようだった。翌日、駅前の書店で犬の図鑑を立ち読みした。一匹の犬を見たいがために、4200円もする本を買うつもりは毛頭なかった。だが、気がついたらレジの前で財布を握りしめていた。そのときの図鑑はいまでも愛用している。


●アイリッシュ・セッター
 赤いアイリッシュは世界の人気者。イギリスでは何よりショー・ドッグとして有名だが、アイルランドでは実猟犬として使える犬が大切にされている。ドイツでは美と性能の融合を図り、端麗な実猟犬を作る努力が続けられている。
 長い歴史と速力と持久力を持つ犬。水中作業に適し、鳥猟の他、兎や鹿などのフット・セントを追うように調教することもできる。運搬はお手のもの。時には害獣にも反応する。絹のような鼻面も琥珀色の瞳も常にゲームを求めている。盛んな運動意欲を危険なく満足させられる環境に暮らすべきである。毛皮や飾りやドア・ストッパーを買うノリで手を出すのは禁物。
 飼い主は無論、自然と運動をこよなく愛する人でなければいけない。森や野に親しむ時間をたっぷり持っている人。早くいえばその中で暮らしている人。そして犬が従順さを身につけるまで見捨てず教育してやれる人。活気溢れ自負心を持つセッターは決してしつけやすい犬ではない。暇を持て余すと諸悪の根源となる。いつも何かさせておけば機嫌がいい。家族に親しみ、子供好きで賢く、眺めるによし触るによし、才色兼備の家庭犬になる。
(『世界の犬種図鑑』エーファ・マリア・クレーマー著/誠文堂新光社 p254より)


 飼い主の条件にはことどとく当てはまらないわたしであったが、そんなもの、どうとでもなると思った。猟犬でも橇犬でも牧羊犬でも闘犬でも、みんな家庭犬として立派にやっているではないか。ウサギやキツネがいなくてもじゅうぶんに運動させればいいのである。材木座海岸の波打ち際を疾駆する美しい栗色の毛並み。わるくない。
*

 何事にも先達はいる。当時わたしがもっとも頼りにしていたのは、近所の犬の飼い主さんだった。彼らのおかげで、わたしは実に素早く昨今の犬事情を知ることができた。もちろんじぶんでも勉強した。しまいには、目に入った犬の犬種を正確に言い当てることができるまでになった。すごい情熱である。
 そうして結果的にたどりついたのが、犬舎Sだった。


■犬舎S
 最終的な決め手は実績規模である。電話すると「仔犬生まれてます」という。すぐに見学の予約を入れた。
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 広々とした施設は清潔で、スタッフもきびきびしており、管理が行き届いている印象を受けた。人気のゴールデン・レトリーバーシェルティシベリアン・ハスキー、珍しいところで、ワイマラナーアラスカン・マラミュートがいた。スタッフの案内で、生まれたてのアイリッシュ・セッターのところへ行った。薄暗い犬舎のオリの中、むくむくと動く数頭の仔犬。いい年をして恥ずかしげもなく「かわいい!」連発するわたしであった。しかし、母犬、でかい。体高70cm前後ということはわかっていたが、全体のボリュームは実際に見ないとわからない。


■一目惚れ
 その日はいったん引きあげることにした。帰りしな、広い囲いの中に放されている犬がいた。ボーダー・コリーだった。チョコレート&ホワイトとブラック&ホワイトの2頭。「お腹に子どもがいるんですよ」と案内の人がいった。ブラックのほうがフェンスに飛びついて鼻面を出した。先端の白い尻尾をふさふさと振っており、手を出すとべろべろ舐めた。とても気のいい犬だと思った。

●ボーダー・コリー
 イングランドとスコットランドの国境地方出身。ボーダー・テリアと同郷である。作業時、身を低く伏せ、羊にぴったりと目を据えて追ってゆくやり方はボーダー・コリー独特のもので狼の狩猟法を強く想起させる。羊を護る犬から殺す犬への距離も実はそう長くない。牧羊の盛んな土地では、厳しいコントロールのもとに飼育されている。開けた土地でも囲いの中でも、牧夫の口笛や合図があってもなくても、定められた仕事をきちんと果たす。リーダーへの従属性もまた、狼から受け継いだ本能である。
 賢さが首輪をつけて働いているような犬。怠惰と無為徒食はコリーの辞書にはない。命令はよく守り、手入れに暇や金がかからない。望むのは労働だけである。常に役立つ犬でありたい。牧羊でも納屋番でも人命救助でも宅急便でも何でもいい。とにかく使っていただきたい。この熱烈な作業意欲が満たされなければ、ボーダー・コリーは磨かれざる玉に終わる。失業中の犬はアジリティやオビディエンスのトレーニングを受けて社会復帰をめざそう。
(『世界の犬種図鑑』エーファ・マリア・クレーマー著/誠文堂新光社 p138より)


 あのとき妊娠中のボーダーを見なければどうだったろうと思うことがある。見た瞬間にわたしの腹は決まっていた。アイリッシュ・セッターとはご縁がなかったのである。
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 繰り返しになるが、犬の大きさは成犬を実際に見ないとわからない。ペット・ショップでグレート・ピレニーズの仔犬を引き取りに来た家族を見かけたことがあるが、彼らの車はなんと軽自動車だった。それに両親と小さな子供3人が、仔犬を取り合いながらどかすかと乗り込んだ。体重100kgを越えることが珍しくない犬種である。人ごとながら、とても不安になる光景であった。


■準備したもの
 どうしてもいろいろと買いそろえたくなってしまうが、先達の指導に従い、必要最小限にとどめた。仔犬を受け入れるにあたって準備したのは、餌と水のボウル段ボール箱古タオル古新聞のみ。
 引き取りに行くときに持参したのは、段ボール箱古タオル、そして現金。これは結果論にすぎないが、必要なものは順次犬が教えてくれる。それまでは間に合わせでどうにでもなる。

●犬舎S:お客様への注意事項
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1) 家に着いてから一週間位は、ストレスが出やすいので、あまり犬をかまいすぎない様お願いします。
*お風呂も一週間位はひかえて下さい。
*子供のおもちゃにしないで下さい。
2) 予防接種(混合ワクチン)は獣医さんで行って下さい。最初は生後2ヶ月目と3ヶ月目、後は一年毎にお願いします。
3) 冬場の幼犬は寒くない様にして暖かい所に置いてあげて下さい。
4) 犬によっては車に酔う事があります。車酔いする犬を連れて出る場合、徐々に車に馴らして行く様にお願いします。
5) 最初の2〜3ヶ月位は、こちらで与えていた食事と同じ物を食べさせて下さい。幼犬の内は牛乳を与えると下痢をしやすいので、絶対に飲ませない様お願いします。
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(以上、原文ママ)


 犬舎Sでは、フード類の購入をすすめる。同行してくれた先達は「不要」という意見だったが、はじめて仔犬を飼う不安から、最初の一回に限り、いわれるがままに購入することにした。以下、その内容と指導など。

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・ドッグ・フード(ユカヌバ幼犬用。一回につき、大さじ山盛り5〜6杯)
・チョビワンフレーク(大さじ山盛り3杯)
・ミルク(犬用粉ミルク。専用スプーンで2/3を規定量の温湯で溶く)
・その他/ハチミツ又は砂糖、とりのささみ
*食事は1日2回。
*ドッグフードを熱湯で10〜15分ふやかし、チョビワン、ミルク(ハチミツ)をよく混ぜ、温湯を入れる。
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 プリントには「ハチミツ又は砂糖」とあるが、購入した「餌セット」の中の「チューブ入り栄養剤」で代用とのことだった。

 チョビワンフレーク、犬用ミルク、チューブ入り栄養剤は与えなかった。なんだかお薬のような気がしたからだ。また「食事は1日2回」とあるが、実際には1日3回〜4回に分けて与えた
 体重2キロ強の仔犬に対し、ユカヌバ幼犬用3〜4杯をお湯でふやかしたものを1日3〜4回。飲み水は水道水を常備。この内容でとくに問題はなかった。


●犬舎S:「血統書」
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(プリント続き)
6) 血統書は申請してから発行されるまで時間がかかります。遅くなる事もありますが必ずお送りしますのでお待ち下さい。(1〜6ヶ月位)
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 ここでいう「血統書」とは、社団法人ジャパンケンネルクラブ発行の国際公認血統証明書である。送られてきたときに「あれっ」と思ったが、所有者は犬舎Sの代表者になっている。名義を変更するには手続きが必要である。このへんの仕組みについてはよくわからないが、わたしは名義変更をしていない。名変料(3000円)が惜しかったわけではない。「S」とは正式な売買契約を取り交わしたのだし、名義を変更してJKCのクラブ会員になっても、たとえば同犬種の登録頭数にカウントされるくらいで、なんらメリットがないような気がしたからだ。先達も同じ意見だった。
 (なにかいいことあるんですか? 知ってる人がいたら教えて下さい)

 うちに仔犬が来て、用意したボウルから水を飲んだ瞬間、すべてのことが雲散霧消するのを感じた。金を払って買った純血種という事実は、わたしとわたしの犬にとってほとんど意味がない。血統書は遺伝による重篤な病気に罹った場合のことのみを考慮し、保存しているにすぎない。

●犬舎S:「安心の生命保証」
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【保証内容】
仔犬の引き取り後、当方の責任による1ヶ月以内の病死の場合は、同程度の仔犬を無量で再渡いたします。ただし、お客様の不注意と思われる状況による死亡の場合は、その経過を充分に考慮した上で対応させて頂きます。
尚、代犬保証は、1度限りとさせていただきます。

【注意事項】
○当日お求めの際、スタッフが飼育方法を御説明致しますので、よく聞いて必ず厳守して下さい。
○仔犬には、当社で御用意した餌だけを、1ヶ月〜3ヶ月位与えるとうにして下さい。
○各種伝染病によりワクチンは、必ず生後2ヶ月目と、3ヶ月目に接種して下さい。
○仔犬引き取り後に、万一病気による治療をお受けになる場合は、お客様の実費負担をさせて頂きますので、ご了承下さい。
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(以上、原文ママ)


*この項、犬舎Sに関する“引用”その他は、すべて1997年当時の内容です。

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